じっとりとした暑さが肌を撫でる初夏、私は学校からの帰り道を歩いていた。
今日から私の高校では、夏休みが始まる。
高校二年生の夏休み──普通の高校生であれば、部活や遊びに熱を入れることになるだろう。本来であれば、私も所属している合唱部の活動に心血を注ぐことになっていた。
しかし、そうはならなかった。私の夏休みには、何もない。
そのことを思い出すと、悔しくて、悔しくて、私はスカートの裾を握り締めた。
二ヵ月前、私は次のコンクールでソロ歌唱を担当することになった。
ソロ歌唱は、合唱の華だ。
日々研鑽を積んだ私の歌声を、ホール中に響かせたい。
合唱という群体生命の中で、私の声だけを聴いて欲しい、認めて欲しい。
そんな承認欲求から始まった努力が、一年かけて実を結んだのである。
しかし、運命は私を見放した。
私の喉にポリープが見つかったのである。
ポリープを切除するまで、私は声を出すことができない。仮に、切除したとしても、以前のように発声することは難しいだろうと医者に言われた。
当然、顧問からは当面の休部を命じられた。
今頃、皆はコンクールに向けて練習をしているのだろう。
しかし、私は家に帰るために未だ明るい街中を歩いている。
その時、路地裏から、何やら不穏な気配を感じた。
視線を向けると、そこには老婆がいた。
腰の曲がった老婆は、辻の占い師が佇むように道端に椅子を置いて座っていた。
「もし、そこのお嬢さん。」
腰の曲がった老婆は、視線に気が付いたのか、私に声を掛けてきた。
「は、はい……。」
そう答える自分の声は、喉にある異物のせいで、情けないほどに掠れていた。
そして、私は老婆に招かれるように路地裏に入っていった。
合唱部の一件があって、半ば自棄になっていたのだろう。
私が老婆の前に立つと、彼女はゆっくりと私の方に握り拳を突き出してくる。
そして、握っていた拳を開いた。
老婆の手の中には、白い石のようなものがあった。
「……これは、『歌姫』の『骨』じゃ。」
老婆はそう言って、私に白い石――骨を差し出してくる。
「歌姫の、骨……?」
日常生活で見慣れない物が、急に目の前に突き出されて、私は一歩後ずさる。
「そう、かの有名な歌姫の軸椎……喉仏の骨じゃ。これを飲み込めば、たちまち、亡くなった歌姫のような美しい歌声が手に入るだろう。」
――この老婆は、何を言っているのだろうか。
しかし、私の悩みを知っていることと言い、佇まいの不自然さと言い、この老婆が只者であるとは思えない。もしかすると、この骨は本当に……。
「この骨を飲み込めば、綺麗に歌えるようになるのね?」
そう問いかけると、老婆は目許を細めて頷いた。
私は小さく頷いて、老婆の掌にある骨を二指で摘まんで、一息に飲み込んだ。
小さくても骨は骨、硬いし、尖っている。
骨が喉に詰まって、焼けるように痛い。
私はカバンから慌てて水筒を取り出して、流れる水で骨を押し流した。
詰まっていた骨が、喉にあった異物を裂いたような感覚があった。
異物に入った『傷』から、熱くて苦い何かが溢れ出てくる。
「痛ッ……え……?」
思わず漏れた呻き声を聞いて、私は目を丸めた。
私の声は、ポリープに邪魔された掠れた声ではなかった。
むしろ、元の声よりも可憐で、艶めかしいものになっていた。
これが、歌姫の骨の効力なのだろうか。
私は、老婆にお礼を言おうと思って顔を上げた。
しかし、老婆は座っていた椅子ごと、どこかに姿を消していた。
◆◆◆◆
どうやら、私のポリープは完全に消えたようだ。
あまりに不思議な現象に、担当医も首を傾げていた。
合唱部に復帰した私は、新たに手に入れた歌声を使って、ソロパートの座を取り戻した。
そればかりか、コンクールで私の歌唱を聞いたスカウトマンに目を付けられて、芸能界デビューすることになった。
今日も、私は学生コンクールなんて比べ物にならないような数の観客を相手にして歌っている。私の歌声を聞いた客たちは、皆うっとりとした視線を私に向ける。
でも、その視線に誰に向けられているのか、私にはわからないままだ。
長野さんという20代の男性、毎晩の様になぜか「右足だけ」を攣ってしまっていた。
ベッドで横になっていると唐突にやってくる、そんな痛みに顔を歪ませ悶える。それが一晩のうちに何度も何度も。1、2時間おきに起こるのだ。
あまりに酷いので病院に行ってみるものの特に異常は見つからない。なのでほとほと困り果てていた。
ただ、ある日の夜。
いつものように足の痛みに起こされて、苛立ちながらゆっくりと目を開ける。すると自分のすぐ目と鼻の先に、自分の足が見えた。
おかしい。普通どんな格好で寝ていたとしても、自分の足は目の前に来ることはないだろう。
しかし、長野さん
「確かにそれは自分の足だ」
そう確信を持ったのだという。
なぜなら今、自分の右足を誰かにさわりさわりと撫でられている感覚がある。そして、その感覚と寸分の狂いもない動きで目の前の足を妙齢の女が優しく優しく、さすっているのだ。
全体がやたら黒ずんでいて、指はカリカリに骨張って病的に細い。そんな手を動かしながらこの女、蚊の鳴くような声で何かを口ずさんでいる。
気色の悪い夢だと思いながらも彼の耳は、女の声に自然と吸い寄せられてしまった。
女は小さな声で、しかしリズミカルに
「はやく、この子が、死にますように。はやく、この子が、死にますように」
長野さん、恐怖で思わず声を上げてしまった。
その瞬間女の顔面がぐるりとこちらを向き、
「やっとこっち向いたね」
心底嬉しそうに、そう言った。
そこで長野さん目を覚ました。
なんだ夢か、と呟きつつ、バクバクと騒ぐ胸を撫で下ろした。
そんな話を僕は、病室で聞いた。
入院中の長野さんから。
バイク事故で右足に裂傷を負い、最終的に切断するに至った。そんな長野さんから。
突拍子もない話になんと声を掛けるべきか、僕は口をつぐんでしまう。しんと静まった病室に、傍らに置かれたラジオから流れるポップソングだけが響いている。平成の歌姫、H・Aの名曲。
長野さん、そのリズムに合わせて虚ろな目のまま
「早く、みーんな、死にますように。早く、みーんな、死にますように」
精神に異常が見られたとのことですぐに隔離病棟へ入った彼が今、どうしているのか。僕は知らない。
その街ではある日、博物館に人魚の骨が展示されているという噂が流れた。
時は千年前に遡る。海に繰り出した船乗りたちが岩に腰かけて歌を歌う人魚に出会い、その人魚を捕獲したのだという。船乗りたちは夜通し祭りを開き、人魚を港の壁に磔にした。以後、磔の人魚は千年海風に晒された。
夜になると、磔にされた人魚の歌声が港に響くのだ。……そんなおとぎ話がこの街では長年まことしやかに囁かれてきた。
さて、そんな人魚の骨が博物館に展示されることとなったらしい。
展示当日、多くの人間が人魚の骨を見に来ようと押しかけた。博物館が開館するまで街は大騒ぎだ。長蛇の列の間には様々な憶測が飛び交った。上半身が人間、下半身が巨大な魚の骨だとか、いやジュゴンの骨だとか。人魚の骨が本物かどうか賭け事にまで発展した。
いよいよ博物館が開館の時間になった。街の人が押しかける。
博物館の静寂を打ち破る多くの足音。いくつもの展示物に一目もくれず、群衆は目当ての場所へと賭けていく。果たして大広間にそれはあった。
それはガラスの棺に納められた、カラカラに干からびた人骨だった。茶色く小さく萎み、元の姿などまるで想像できないほどだ。そして何よりも、その骨には両足があったのだ。
多くの来場客が落胆した。人魚の骨なんかじゃないじゃないか。騙された。
しかし棺の側には小さな説明書きがあった。
『王女マリアの遺骨
千年前、我が国の第四王女マリアは敵国に囚われた。当時四歳だった彼女は囚われた先で微かに残った記憶を頼りに祖国の歌を歌い続け、助けを待ち続けた。
それから十年後、彼女の歌を聞いた我が国の者がマリアの存在に気づき、彼女を小舟に乗せて逃がした。小舟に揺られたマリアは必死に舟を漕いだが、大きな岩に座礁してしまった。もはやここまでかと思われたその時、大きな船が岩に近づいた。それは彼女の祖国の船だった。
マリアは歌った。自分が同じ国の人間の者であると知らせるために。しかし岩の上に座り、歌を歌い続けるマリアの姿を見て、船乗りたちは彼女をセイレーンだと思った。そうして彼女に近づくと、マリアを抱きかかえその胸に銛を一突きした。
船乗りたちは彼女が自国の王女であるとは露とも知らずに彼女を殺したのである。
そうして船乗りたちは彼女を港の側の壁に磔にした。
その遺骨が王女マリアだと知られたのは最近のことである。』
歌を歌い続けた少女はセイレーンとなり、人魚となり、千年後にようやく王女の名を取り戻した。多くの来場客は早合点された噂に憤り、荒々しく博物館を立ち去ったが、展示の説明書きを読んで全てを知った者たちは彼女の人生に涙した。
王女マリアの遺骨には、胸の部分にぽっかりと穴が開いている。彼女が銛えぐられた傷の跡だった。
英国の「骨」「傷」「歌姫」と言う名の文具メーカー
この3社のうち、何故か日本に輸入される鉛筆の濃さが
薄くなるメーカーがあるのだが
それは、どの会社だろうか?
A:『骨』(英語:BONE⇒日本語:HONEとなり、BがHになっている。)
縷々道 生我
2025-04-28 11:11:53 +0000 UTC墓薙
2025-04-24 16:27:54 +0000 UTC