LeaksParty
縷々道 生我 from fanbox
縷々道 生我

fanbox


君はいい人

『縷々道くんは優しいからね』


よく聞く言葉だ。執務でも、活動の場でも。

耳障りのいい言葉だが、それを聞くたびにまたか……と思ってしまう僕もいる。


訂正しておくと、そういった周りの認識が嫌なわけではない。ただ、自分と周囲の認識に隔たりがあるのが嫌なのだ。僕は自分のことを優しい存在だと思ったことは一度もないのだから。


「僕は優しいからね」と、半笑いで自称することはある。でもそれは“冗談だから”自称できているのだと思う。本当に優しい存在は、自分のことを優しいだなんて呼称しない。


昨日、旅行からの帰り道、ゴトン、ゴトンと不規則に揺れる列車の中で、窓の外を眺めながら「優しさとは何だろう」と考えていた。


誰かが言う、“優しい人”は他人にナメられている人のことだ。


それは少し乱暴な言説だと思う。僕は誰かに「優しいね」と言う時、相手に対して尊敬の念を感じている。


誰かが言う、“優しい人”は自分より他人を優先できる人だ。


近しいが、違和感がある。誰かを優先し続けている人を見ると、「優しい」という印象以上に、自分の人生を生きているのかと心配になる。


では、僕にとって“優しい”とはなんだろう? ふと、考えた。


なるべく、他称「優しい」である僕が傷つかない結論がいいな……という感情がある中で思考した結果なので、多少の贔屓目はあるだろうが、許してほしい。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


さて、突然だが、人の幸福(※)を液体に例えよう。君たち人間の心中には、その液体を注ぐためのコップがある。コップの大きさは人によって違うものとする。


そのコップは、常に内容量が変わっていく。嫌なことがあればコップの中の幸福は減るし、良いことがあればコップに幸福は注がれていく。


ところが、人生万事塞翁が馬、一つ悪いことがあったら、一つ良いことがあるとは限らない。幸せなこと、不幸なことが連続で起きる時もある。中身が足りないコップに幸福を注ぐのは重畳だが、満杯になったコップにさらに幸福を注いでいくのは問題が生じる。


既に中身が満杯のコップに幸福を注ぐとき、多くの人は溢れる幸福を零さないためにコップを一回り大きいものに取り換える。その方がより沢山の幸福を享受することができるからだ。利益を追求することを考えると、至極まっとうな選択である。だが、一度大きくなったコップは、小さいものに戻すことが難しい。


そして、大きいコップに換えてしまうと後が大変だ。


例えば、ある人が自分のコップを2倍の大きさに換えたとしよう。今までは100しか入らなかった幸福が、200も入るようになった。


これだけなら幸福に見える。しかしここで、揺り戻しのごとく連続で不幸な体験をしてしまい、幸福が50に減ってしまったとする。以前のコップであれば、50もあれば半分くらいは幸福な状態だったのだが、コップを大きくしてしまったせいで、以前よりも『満たされていない部分』が増えてしまった。


さらに悪いケースだと、この人は今回たまたま200の幸福を獲得しただけで、ベースが50~80程度の場合がある。そうなるとこの人は、これから長い間、幸福だった思い出と今の生活を比べてしまうようになってしまうのである。満たされない120を求めてしまうのだ。


一度上げた生活水準を落とすことが難しいように、一度上げた幸福の水準を落とすことも難しい。


何の話を始めるんだ君はと思うかもしれないが、

ここでやっと僕の “優しさ" に関するスタンスを述べていく。


僕の思う“優しい人”は、人生における幸福のリソースを操るのが上手な人である。


いわゆる “優しい人” は、先程たとえに挙げた「コップ」を無意識的に満たさないように立ちまわっている。自分のコップから幸福が溢れそうになってしまった時に、自分の幸福を他人への気遣いや配慮という形で消費しているのだ。


そうする事によって、自分のコップを大きくすることを防ぎ、効率よく幸せを摂取している。それに、自分のコップが空になってしまった際には、かつて幸福を分け与えた相手から、幸福が戻ってくることもあるのだ。


もしも僕が、そんな生き方をしている、と思われているとしたら……

それは幸福だ、と感じた。


例え話を止めて結論に移ろう。


“優しい人”は、自分が満たされている状態のときに、周りに目を向けられる人だと思う。自分が辛い時にも周りに目を向けてしまう人は、優しいのではなく他人が傷つくこと、苦労することを恐れているのではないだろうか。それも一種の配慮かもしれないが、どことなく歪に思えてしまう。


まずは自分が幸せになって、自分が満たされたときに他人に幸福を分け与える。そうやって、些細なことに幸せを感じて生きていける状態を保てば、過度に己を追い込むこともなく、穏やかな日々を過ごせるのではなかろうか。


お悩み相談配信でも話しているが、君たちにとって最も優先するべきは自分の幸せである。そのコップが溢れそうな時、誰かに優しくできる人になれるといいね。


※幸福は一般的に価値のある概念とする。例えば人間関係、例えば収入、例えば自らの目標の達成に近づくこと。

君はいい人

Comments

真の共感!大層な響きにも感じてしまうが、そう言ってくれるのは嬉しいね。 お互いにそうあれるようにしよう👿

縷々道 生我

打算でも、本当に優しくても、周りから見れば同じ【優しい人】なのかもしれないね。 君の立ち回りは非常に賢いと思うよ、僕が保証する。

縷々道 生我

自分が魔族氏に惹かれる理由が分かった気がした 正直・・・この話スッと入って来たなと思います 真の共感って酔ってても酔いが覚めて素に戻す効果があるんだなあ(゚∀゚) いやほんと自分はかくありたいってのを言葉にしてもらったっなって ・・・うん!あなたの隣人で良かったわ

よーさん

多くの人はコップを一回り大きいものに変える…というくだりを読みながら、私ならコップを変えなくて良いように溢れないようにするなぁと思ってました。 たしかに周りから優しいと思われているフシがある。 10年位前までの私は本当に優しかったのかもしれない。なぜなら無意識だったから。 でも人間不信に陥って以降私のは優しさではなく打算かなと思う。求められているだろう言葉なり言動で応えて穏便にその場をやり過ごしたいだけという…。

るしお

優しい人、いい人、寄り添ってくれる人、人を褒める言葉にはすべて、【期待】が混じっているような気がして僕も怖かった。 ただ、良い意味で、期待に応えるのを止めようと思ってからは少しだけ気が楽になったよ。良い人間関係は期待と報恩だけで繋がっているわけではないと思うしね。 君に何かを与えられたなら、この記事を書いてよかったよ。

縷々道 生我

優しい人だねと言われると、反射的にそうじゃないよと思ってきました。それどころか、優しいと言われることがちょっと怖いとすら思います。 なんとなく、「だから私に優しくしてね」と優しい行為を強請られるような気がしていたからです。なので私は優しいと言われるたびに不安になっていました。 今回のテーマは私の中の課題でもありました。投稿されてから3回4回読み返しました。 自身の幸福と絡めて考えたことはなかったので、幸福のリソースの操作が上手い人という意見にあ〜〜! ってなりました。目から鱗。 それを踏まえて考えて、私の中にはもうちゃんと幸福があって、余った分を分けているのだとすると……優しいからといって枯渇するほど奪われることは、そうそうないんだろうなと思います。 「優しい人」ずっとどう受け止めていいか分からない言葉でしたが、もう少し不安がらずに受け入れられる気がしてきました。

墓薙


More Creators