今日、『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』という映画を見に行った。
重病にかかってしまった女性が、『安楽死をする際に近くに人の気配を感じていたい』という動機で、主人公に別荘に泊ってもらうという話である。
「私は、安楽死をするための薬を、死んでもいいと思った日の夜に使う。朝になって、私の部屋の扉が閉まっていたら、私の死を警察に伝えて欲しい。」
女性は主人公にそのような依頼をする。依頼を受けた主人公は、朝が来る度に女性の部屋を見て、扉が開いていることに一安心するのであった。
映画の細かな内容は、ネタバレを避けるために省かせてもらう。しかし、これから本作の核となりうる内容のネタバレを行うので、上記のあらすじを見て映画を見に行きたいと感じた人は、視聴後にこの記事を読んでくれればと思う。
さて、結論から言うと、女性は薬を用いて安楽死する。しかし、彼女は主人公が家にいる『深夜』ではなく、主人公が外出している最中に自殺した。
ここからは、僕の主観も入るのだが「安楽死をする際に人の気配を感じていたい」と言っていた女性が、主人公が外出に行っている(=家に誰もいないタイミング)で安楽死したのは、主人公に負荷を掛けないためではないかと思われる。
この映画の舞台となっている町では、安楽死は許されていない。キリスト教徒が多い街ということもあって、自殺がタブーとなっているのだ。
当然、女性が安楽死の薬……つまり、服毒で死んだとあっては、主人公は加害者として疑われてしまう。実際に、主人公は女性が死んだ後、どのように警察に応対すれば良いかを悩んでいた。その姿を目の当たりにしたからこそ、女性は当初の目標を曲げて、主人公が外出している時間に死んだのだ。
その時間、主人公は友人と会っており、アリバイが成立するからである。
『人の存在を感じられる場所で安楽死を行うこと』を女性のハッピーエンドとするのであれば、これは間違いなくビターエンドである。
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僕は、『安楽死』というものに肯定的である。
もちろん、「安楽死しよう!」みたいな軽率なノリで行われて良い物ではないと思っているが、色々なことを考慮した上で、結論として出てきた安楽死は受け入れられるべきではないかと思っているのだ。
『自殺はいけないことだ、生きていれば希望がある』こういった言論には、ある程度の正当性はあると思う。実際、人生のどん底から這い上がって来た人もいるし、大体の国には、『詰んだ人』へのセーフティーネット足り得る制度がある。
だが、漫然とした『生き辛さ』ばかりはどうしようもない。
生き辛さを抱えて、何とかしようと努力をして、それでも駄目だった人にとって、『安楽死』という制度は、救いの糸になり得るのではないだろうか。
『自由に生きる権利』そして『自由に死ぬ権利』
不可分であり、表裏一体なこの権利が、片方しか与えられていない国が非常に多いような気がする。
本作は『安楽死ができないからしょうがなく生きる』ことに対して『それは本当に生きていると言えるのだろうか』という、火の玉ストレートを投げるような作品であるように思えた。
僕は現在、目標を持って生きている。
『安楽死』という制度があっても、利用することはないだろう。
だが、この先もそういった心持ちであり続けられるとは限らない。
その時に、『自由に死ねない世界を生きる』というのは、どういった心持ちなのだろう。そんな日が来ないことを、祈るばかりだ。